想像力の貧困にドロップキック

2014年10月5日 丑田 俊輔 - ハバタク株式会社 代表取締役 -
「世界」という言葉を聞いた時、どんなことを想像するだろうか?
アメリカ、中国、ベトナム…「地図上の世界」をイメージする場合が多いのではないだろうか。これに対して、元々「世界」とは「生きる世界」を指していたと、以前長野の山奥で哲学者・内山節氏から伺った。「生きる世界」は、自分たちが暮らす身近な世界のこと。これは自分だけの世界ではなくコミュニティが共有しているものでもあるため、「関係の世界」といってもよく、自然や他者との関係、そこから生まれた文化や歴史をも内包する。そこでは、様々な要素を分断せずに全てひっくるめて初めて世界が成り立ってくる。共同体が個人に分断されていく過程で、「世界」は、次第に「地図上の世界」となっていった。

ものごとを語ったり参加する時に、「地図上の世界」のままだと、中々自分ごとになりきらない(身近に感じない)し、様々な要素に分割されることで全体性が遠のいていき、問題も解決されにくい状態に入っていってしまいがちだ。世界の環境問題、とか、日本の政治問題、と捉えても、多くの人にとっては身近なものになりきらないし、解決の糸口もつかみにくくなってくる。

こう考えると、「統合」から「分断」へ、という言葉が浮かび上がってくる。

「生産者」と「消費者」の分断、もその一つのあらわれだ。
「お金を払えば、商品を購入できる」「商品に問題があれば、クレームをつけてよい」
このはっきりしたルールのお陰で、あらゆる産業が発展していったし、便利になったけれど、次第に与えられることに慣れきっていった。仕事も、暮らしも、ひいては生き方も社会から与えられる。政治も教育も、「自分たちは消費者だ」という気分になる。景気がよくならないのは政治家のせいだし、学校でトラブルが起きたら先生のせい。
これらの公共的な分野(元々は「公共=みんなでする仕事」であったという)にも役割・責任分担は重要だけれど、全てがきれいに分断されてしまうと、「より良くしていくこと」が「自分ごと」にならなくなってくる。
これ自体、結構人ごとではなくて、難しい政策を勉強するよりも、日々の仕事で忙しかったり、休日はデートがあったり、という極めて合理的な行動(合理的無知)なのだ。そして、手軽に得られて感情に訴えかける情報を自分の意見と思って思考を止めてしまう。想像力の貧困だ。

そんな構造と自分自身に、ドロップキックをかましたい。
自分ごととして参加すること、自分たちで創るということは、この上なくプレイフルかつクリエイティブな営みだ。

そのヒントになりそうに思っているのが、とても身近な「生きる世界」での身体的な感覚だ。自分自身、特にイナカに引っ越してからじわじわ体感している。
自然やコミュニティといった概念が抽象的じゃなくて目の前に存在しており、地域内での助け合いを感じ、行政の取り組みには直に影響を受ける。世界がヒューマンスケールで、人間の想像力の射程で認識できる。こうした部分がベースにあるからこそ、他者や自然、さらには他の世界への想像力を遠方や抽象的なところまで拡大していけるように感じている。

生産者と消費者、市民と行政、イナカとトカイ、ローカルとグローバル、エゴとエコ、色んなことをひっくるめて、「身体性と関係性をもって統合的に思考する」ことを実践していきたい。
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