わたくしは、種(シュ)としての身の丈を知る社会を 望んでいて、そのために、日々、暮らしています。

2014年5月3日 小崎悠太 - テンダー 、ヒッピー&連続愉快犯 -
こういう町でありたい、こういう社会でありたい。たくさんの考え方や欲求があります。しかしわたくしは、そのほとんどが、当たり前すぎて意識にも上らなくなった「浪費と破壊の正当化」の上に、ふわふわと組み立てられているように思うのです。

というのも、ヒトが安定して生み出せるエネルギーは、電気換算すると、1時間に100W程度。ところが平均的な日本人の消費電力は、1時間あたり1000Wほど。

何かおかしくはありませんか?
電気的に何も生産していないのに、24時間、種の能力の限界の10倍を使い続ける。

これは、自分がちょっとくらい使っても、という話ではありません。
「能力の10倍のエネルギーを消費するヒト × 1億3000万」という話だと思うのです。

こういう話をすると、「縄文時代に戻れと言うのか」と怒り出す人がいますが、昔に戻ることは(実は)誰にもできません。だからそんなに怒らないでちょうだいな。

そもそも、「今」というものは、人類のすべての歴史とそのスキルを引き継いだ、人類史上の最先端です。愚かであろうと、失ったものが多かろうと、その反省と後悔を刻んで歩いてきた、ヒトという種にとっての、もっともタフな最先端ではありませんか。

ここ30年の技術を放棄しても、決して縄文時代にはなりません。ときには、どこで間違えたのか、さかのぼることも必要でしょう。

わたくしは、鹿児島の山中にて、電気とガスと水道を契約せずに、小さなソーラーパネルと、薪と、山水で暮らしています。家賃は年間1万円。

蛇口をひねれば、塩素の入らないミネラルたっぷりの自然水が流れ、薪と焚き火でごはんもふっくら。交流電源を使わないので電磁波と、なにより冷蔵庫のモーター音が暮らしにありません。

これが縄文時代であるなら、それでいいので、わたくしはみんなを誘いたいですね。生物としてのストレスを減らすことと、電気的なエネルギーの消費を抑えることは表裏一体です。

政治に求めることも大事だけど、それよりは個としての漲り(みなぎり)を、各々がもっと掘り下げて良いのではないでしょうか。

こういった、「先進的古風」を実践し、理解する人が増えないことには、その集合体である政治が哲学を持ち、思慮深くなることはないように思います。政治は、個の集合体なのです。
つまるところ、個としての漲りを湛える人が増えることは、その集合体である政治へと、いつしか自然と意識を誘導するように思います。
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