学生時代 – 荒井聡

インタビュアー:
あらい先生の若い頃の話っていうのも先ほどでたと思うんですけれども、当時の時代感覚と今とで全然違うと思うんですけれど、どんな学生時代を送られたんですか。

荒井聡氏:
僕は中学校のときにね、ものすごく足が速かったんんですよ。札幌で記録を持っていたから。100とか200とか。

それで高校に入ったときに僕の進学した高校が陸上大会で全国大会にでることになったんですよ。800mで1人200mで4人走るんだけれども、それで4人目の学生の記録が私が中学校のとき作った記録に及ばなかったんですよ。

当時僕200m24秒フラットくらいで走ったんですね。もう50年くらい前の話ですけどね。当時tもなければ、スパイクもなければ、スパイクはいている子もいないような、そういう時代で。

インタビュアー:
100mですとだいたい何秒くらいなんですか。

荒井聡氏:
100mで11秒7くらいで走ったんですよ。当時ね。それで学校の先生から体育の陸上クラブの先生からインターハイにだしてやるから、優勝クラブに入いって言われたわけ。それからあんまり体が強くなかったもんで、それ断ったんですよ。インターハイにでるの。インターハイっていうのは野球でいえば甲子園のことだから、甲子園にだしてやるっていうのを断ったのと同じことになるんだよね。

それがずっと心残りでして、この間同窓会でね、その先生が同窓会に来てくれて、もう80いくつだったんですけど。それで「あらい君」って言ってね、で「先生あの時はごめんなさい。あれから今でも後悔しているんです、あんな大きなチャンスだったのに、断ってしまって本当に申し訳ないです」と。私は迷ったときは進むっていうのをモットーにしているんです。

私はいくつかの人生で、こう決断のとき、最大の決断のときは選挙にでるかどうか、政治家になるかどうかっていうことだったと思うんだけど、そのときも迷ったときには、あの時を思い出して、いこうって思うことにしたんですよ。って話をしたら、その先生すごく喜んでくれてね。政治家あらいは俺が作ったんだねって言ってね。

インタビュアー:
実際そうなんですもんね。

荒井聡氏:
そうなんですよ。もうひとつね、私の父は私が小学校6年生のときに死んでるんです。教育者だったもんだから、近くの国立の中学校に入る受験勉強をさせられていたんですよ。そんなに成績が悪くなかったから、受験してたら、入れてたと思うんだけれども、ちょうど受験日のその日が私父が亡くなって、葬式の日だったんですよ。それでその中学には行くのを諦めて、近くの中学に行ったんですね。

その中学で家内と会ったんですよ。だから人生っていうのは、親父が亡くなったのは、人生にとってもっとも深い悲しみなわけですよね、だけど伴侶を見つけられるっていうのも最大のプラス要因だからね。それが裏表のように人生ってあるんだと。だからどんな悲しいこと、苦しいこと、つらいことでも、その裏には必ず明日があるんだと。基本的に僕楽観主義者なのでね。そういう人生経験を若いころにしたんだよね。

インタビュアー:
じゃあ、中学生の頃に出会った、

荒井聡氏:
出会ったのが、家内です。ずっと続いているんです。
(テキスト提供:THE NEW CLASSIC [ニュークラシック]
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