井坂信彦 インタビュー全文

浪人中の行政書士業務について

2010年に市会議員をやめて、初めて国勢選挙、参議院選挙に出たんですね。それが次点で落選をしてしまって、残念だなと思いながらもそれから半年間ぐらい、ずっと政治活動を地元で続けていたんです。そうしたらある日妻が通帳を持って来て、「今月末でなくなる」と、働いてくれという話になって…。もう見せられたらその通りだと、「ほんまやな、働くわ」と言って、で何をしようかと思った時に、ちょうど行政書士の資格だけ持っていたんです。

私は大学が物理学の理科系で、法律の勉強をせずに市会議員になった人間だったので、さすがに恥ずかしいなということで、市会議員になっている間に、法律の勉強がてらに行政書士の資格を取っていたんです。
ところが実務経験は何も無い。じゃあ何の仕事をしようかと。当時景気もそんなによくなくて、潰れる会社も多いという中で、じゃぁ廃業する会社のお手伝いをする業務をやろうかと思って色々調べはじめたんです。

ところが、廃業する会社のお手伝いというのは、会社ごとにケースもちがえば、潰れる理由も違う。潰したあとどうしたいか、経営者の考えも違うということで、本当にオーダーメイドのような、一件一件のいろんなケースに対応しなければいけない難しい仕事だったんです。これはちょっと経験のない自分がいきなりやるのは無理だなと思って、廃業の反対側の起業、会社を作るほうの書類はどうなんだろうと。

それはもう、スタート地点はどんな会社でも一緒ですから、作る書類もほとんど一緒なんですよ。よっぽど凝った会社の造りをしない限りは。会社の名前と取締役の名前だけが違うという、ほとんど同じような書類なので、これだったら自分でも作れるなと。

当時会社設立の書類というのが、だいたい5万円から10万円で行政書士さん、司法書士さんの事務所が作っていたんですね。でも、普通の書類だったら5万10万かけて作るのは当然だと思うんですけど、会社設立の書類に関しては、見る所ほとんど一緒なので、これだったらパソコンとかネットをうまく使えば絶対5万もかけずに作れると。ざっと試算したら、一式1万円で作れると思ったんです。

これだったら圧倒的に安いから、お客さんもついてきてくれるかもしれない。別に自分の事務所を開いてそこに来るお客さんだけを相手にするんじゃなくて、値段をてこに、ネットだけで全国で一番安い、圧倒的に安いと、しかも早いということで、全国的に集客を広く浅くしようかなと思って立ち上げたのが、ネット上で、しかも会社設立の書類しか作らない行政書士事務所だったんです。

ネットでやってよかったと思うのは、ホームページはかなり作り込みましたけど、オープンした初日からいきなりお客さんが来て、初日から売り上げが上がるんですよ。これはネット以外ではなかなかないことだと思います。

しかもネットなので、広告を出す量を調整するということ。最初慣れないうちはお客さんの数も取り過ぎたら手に負えなくなるので、広告の量を絞って、経験を積みながらやれたということで、非常に立ち上げがうまくいったなと思います。あとホームページって、キャッチコピーを一個変えるだけで、微妙にお客さんの成約率が変わってくるんですよ。

それはうちぐらい安くて、いきなり最初の一月で100件とか、それだけの件数があると、ちょっと一行だけ変えて、二つのホームページを同時に走らせて、こっちにきたお客さんとあっちにきたお客さんでどっちが申込率が高いかを測っていくと、もう2週間ぐらいで結果が出るんですね。こっちのほうがお客さんになる率が高いとすると、もう一方のを消して、今度はキャッチコピーを変えた状態で、こっちだけ写真を差し替える。そしてまた2パターン同時に走らせてこんどはこっちが勝った、じゃぁこっちを採用しよう…というようなことを、2週間スパンで延々コツコツ繰り返して、打率をジワジワ上げてきている、というのが今のところですね。

■さっきの猫パークとかでは議員さんの仕事に直結する部分はあるのかな?と思うんですけど、行政書士の業務をやる上で役立ったことというのは多々ありますか?

直接役に立ったというか、やっている仕事は全く今は一緒だと私は思っていて、元々起業は好きでしたし。ところが日本では今、起業が非常に少ないんですよ。廃業の方が多い、起業が少ない。これはやっぱり逆転させたいというのは政治家としても市会議員時代からずっとあって、市会議員の時も起業を支援するような政策をできないかという議論をしていたんです。

今でこそ起業の支援なんか当たり前ですけど、当時私が議論した時なんかは、たとえばそういう役所の書類なんかも、書いてあげたらどうだという話をしてたら、そんなものは、起業する人は自分でそんなの全部やれて当たり前で、そんなものを手伝って甘やかす必要はないんだ、みたいな議論が当時、もう15年前ですけど、市議会でされていたような時代です。

今でこそ、起業のワンストップ窓口とかいって、面倒な手続きはどこかがまとめてやってくれのが当たり前じゃないですか。当時は起業たるもの、それぐらいの書類が自分で書けない人は起業する意味もないみたいな答弁が普通に返ってきていて、そのような時代だったんです。

とにかく起業支援したいと。それは浪人中の自分の食いぶちとして始めた仕事でももろに起業支援の仕事に結果的になって、一生懸命今も続けてやっていますし、今議員としてもどんどん起業が起こるような制度設計、社会環境づくりというのをメインでやっています。

若者に関する法律立案について

議員という仕事は立法府ですから、法律を作る、法律を通して、法律を変えることで世の中をよくする、ということが大事な仕事だと思っているんです。

ところが議員立法というのは、なかなかこれまでの日本の国会ではされてこなかったんですけれども、私はこの議員立法ということに非常にこだわっていて、これまでもいくつも法律を出して、しかも野党の法律というのは普段はほとんど通らないんですけど、与党の議員さんのいろんなご協力も頂きながら、野党としては画期的なくらい法律を通してきているんですね。

直近でいえば、たとえば2年前の危険ドラッグの禁止法というのも、いくら厚生労働省、大臣に言っても、「今ある法律でていねいに取り締まりをやるからいいんだ」と言ってやらなかったので、「じゃぁこっちで法律書きます」と言って危険ドラッグの禁止法を出したんです。

出したら、「野党は出したのに与党は何もしないのか」というふうになって、すぐに与党の議員さんも「じゃぁ一緒に作ろうか」ということで一緒に法律を作って出して通して、それで一年後には200店舗あった危険ドラッグの店が、もう完全にゼロになったという成果も出たんです。

去年は働き方のルールの問題で、非正規、パートや派遣や契約社員の方が、正社員の人と同じような仕事をしているのに給料が半分ぐらいしかない、と問題になっているじゃないですか。他の先進国では、同一労働・同一賃金という基本原則があって、同じような仕事をしていたらお給料も同じぐらいにしましょう、と。

お給料に2割差があるんだったら、それはなんで2割の差があるのか合理的に説明できなきゃ、そんな不当に低くしてはいけません、というルールがあるんです。日本にはなかったので、これもルール化しましょうとまず議会で提案して、そうしたら「日本の労働環境には合わないから無理だ」と非常に否定的な返事が返ってきたんです。

じゃぁ自分で法律を書いて出しますと言って出して、それもまた、政府与党の方が無視できなくなって、「じゃぁ、こことここだけ直して通そうか」という形で通していただいたんです。

ですから、今、安倍総理が同一労働・同一賃金でやって頂いていて、これはまさに法律で義務づけた通りに一生懸命やって頂いているということなんです。今年出しているのが、長時間労働の規制法。これも、日本だけが残業代さえ払えばどんなに長く働かせても違法にならないという、変わったルールで来てしまっているので、本当の上限を法律で決めましょう、と。

それはまぁ、忙しい時期とか、徹夜で働かないといけない日もあるから、そんなにガチガチにはしないけど、一月トータルで最大最長ここまでですよっていう線を法律で決めましょうと。

これも政府は非常に否定的だったんですけど、法律を私がこの春出して、ここ最近は政府のほうもそろそろこういう法律が必要かな、というふうに言い出しているというところなんです。

ですから、言ってだめだという時に、私はまず自分一人でもやってみるということがとても大事だと思っていて、よく私は大学生の方とかに接することが多いので言うのは、出来る人じゃだめです、ということ。

皆さんは出来る人かもしれないけど、出来る人をもう一歩超えて、やる人になってよ、っていう話をしているんです。出来る、能力がある、センスがある…出来る人はいっぱいいるんですけど、その中でやる人がごくごく一握り。出来るけど、まだやらない。そんな人よりも、「出来る人」から「やる人」になってくださいね、ということをいつも言っています。

実際、一人でも法律を書いて、党内で賛同を得て出せば、絶対やらないと言っていた政府与党だって「やっぱりやろうかな」ってなるわけなんです。

それは多分、どんな会社に入っても、いいアイデア、あるいは能力、みんな持ってると思うんです。でもそれをやる、と。「出来る人」から「やる人」にというのを、是非皆さんにメッセージとして伝えたいなと思います。
大学卒業から市議会議員へ

若者に関する法律立案について

私が大学の時は勉強もさることながら、バイトとサークルばっかりやっていたんです。さらにはバイトも飛び越えて、ちょっとした起業のようなことを大学の時にしていたんです。

ビジネスは面白いな、新しい商売を作るのは面白いなと思っていまして、大学を卒業して就職先を探すのも、神戸にあるベンチャー企業を、まぁ神戸に住みたいというのも一つ大きくあったんですけど、ベンチャー、あるいは中小企業といったコンパクトな会社で仕事を一通り短期間にいろいろ経験させてもらって、30までには小さくてもいいので自分の商売を持ちたいな、というのが、大学卒業の時に漠然と思っていたことなんです。

それで入った会社が、元々はコンピューターゲームソフトを作っていた20人ぐらいの会社なんですけど、社長がゲームソフトを作るのにややマンネリ化をしてこられていて、画面の中のエンターテイメントじゃなくて、もっと生身の、お客さんが直接触れるエンターテイメントを提供したいと言い出しておられる頃で。

ムツゴロウさんの動物王国みたいなやつを、自社でテーマパークを作ってやりたいとおっしゃっていたんです。

社長のそのイメージが、当時日本の最大のテーマパークがディズニーランドで、年間1600万人。「でもあれはミッキーさんもドナルドさんも中に人間が入った偽物だと。私が作りたいのは本物の象やライオンがゲートをくぐると迎えてくれる、こういうテーマパークを作りたいんだ」とおっしゃっていて。

それは大変じゃないですか、ライオンに噛まれたり、象に踏まれたり。それはちょっと無理だろうとは新入社員だったから言えずに「いやぁ素晴らしいビジョンです、素晴らしい考えです」と言ったんです。そうしたら、「その事業部を作るから、お前がやれ」と言われたのが、私が最初に与えられた仕事だったんです。

社員20人の会社で、ペット事業部という名前だったんですけど、そこで4、5人でやっていて、そんなディズニーランドのような大きさの、しかも象やライオンがいるパークということにはすぐにはならなくて。

で、社長の壮大な夢を現実レベルに畳んで畳んでやったのが、屋内型300坪で、動物は猫だけに絞ったもの。猫は中で自由に歩き回っていて自由に触れる、世界中の珍しい猫が何十種類もいる、そういう猫のテーマパークならうちの会社、自分達の力量でやれるということでオープンしたのが平成10年ですね。

それが社会人時代の最初の仕事です。

■衛生面とかすごく大変そうですね。

もう仰る通りで、テーマパークというと華やかな、新しい新規事業という感じですけども、その舞台裏は本当に地味で地道ですね。だいたい新しいお店をオープンする時って、従業員さんを揃えるのは大変ですけど、猫ちゃんを揃えるのはもっと大変です。

世界中のいろんな地域からいろんな種類の猫を、オープン一週間前に連れてきてくださいなんていうわけにはいかないんです。もう半年ぐらい前から順番に珍しい猫を買ってくる。

繁殖家の方と英語のメールで連絡を取って、日本でこういうテーマパークをやりたいから、そちらから2匹売っていただけないかということを延々交渉して、交渉が成立すると私が運転して関西空港にその猫が入ったゲージを受け取りに行って。

それは当然、オープンまでの半年間、自分で世話をしないといけないわけですよ。だからもう最後は社内で100匹ぐらいいろんな猫がいて。

毎日猫のトイレの世話だけで2時間ぐらい。猫って自分専用のトイレじゃないとしないので、猫が100匹いればトイレが100個あって、それを自分で掃除して、というような泥臭いことをずっとやっていましたね。

■その社会人経験というか、テーマパークを運営された経験というのは、議員さんになられてから活きてくることはあるんですか?

直接活きてくるというのは選挙でいろんなところを回っている時に…。一種類だけどうしても手に入らない珍しい猫がいたんですよ。「トンキニーズ」っていう種類なんですけど。シャム猫の顔がまん丸くなったような、変わった猫なんですけど。

で、自分の選挙が始まって地域をずっと回っている時に、ある奥さんの家に行って「あれ?その猫、トンキニーズじゃないですか?」って言ったら奥さんがビックリして、「そうよ、どうしてこんな珍しい猫の名前をあなたは知っているの?」って言われて。「いや、これ探してたんですよ、日本にもいたんですね」と。その時だけ役に立ちました(笑)

多分世界一猫に詳しい国会議員じゃないかな、と思います。それで、猫のテーマパークをやっていて、無事オープンもできました。本来であれば当然それをきちんと運営してどんどん大きくして・・・。

当時関西初でしたけど、東京には一足先に「ねこたま」っていう、二子玉川にそういうのが出来ていたんですけど、多分日本でも二番目ぐらいで。

うまくいけば、ほかの場所にもとか色々話もあったんですけど、ちょうどその頃、震災の直後ですね、まだ。神戸で空港をつくるという話が持ち上がったんです。

神戸空港の話は、古く遡ると1970年に、当時まだ関西空港が大阪南部、和歌山とかの境に出来る前に、関西唯一の国際空港を神戸沖に造ろうというプランがあったんです。ところが当時公害ブームだったんで、神戸市のほうがそれを断ってしまって、じゃぁしょうがないからといって今の関西空港がある大阪と和歌山の境目のところに関西空港ができたんです。ところが神戸市はずっとそれを後悔していて、断らなければよかったと。

今関空もあり、なくなるはずだった伊丹も残り、なのに神戸市は関西三つ目の空港を神戸沖に造りたいって言い出したんです。

それもまた震災でそれどころじゃなくなったのに、震災の2週間後に市長がいきなり神戸空港を造ると言い出して。被災者はみんな怒ったんですよね。まだ自分の家も直っていない、瓦礫の中で、避難所で寒い中暮らしている時に、なんで空港の話を真っ先にするんだと。

空港自体は、それは一つの事業ですから、いい面も悪い面も両方あるんですよ。ただ、いずれにしても5000億円も使う、神戸市にとっては身の丈を超えた巨大プロジェクトで、しかもこの震災直後にそれをやるのかやらないのか、いちど住民にも賛成反対の意見を言わせて欲しいと。

空港反対運動じゃなくて、空港に賛成か反対か、直接住民に意見を言わせてくださいという署名が、当時の神戸市で35万筆集まったんです。

私は集客施設の仕事をしていたので、人が駅前で足を止めて名前を書いてハンコを押す、ビジネスで言うアクションに至るというところまでいった人が35万人、短期間でこれだけ出たのはすごいことだなと思って。

神戸市民は本当に政治に熱いな、行動力があるなと思って好意的に見ていたら、そのあと、当然署名が35万も集まったら、住民投票されると思うじゃないですか。ところが、そのあとで開かれた神戸市議会で、住民投票はしませんと。言うならば、「ワシらプロの議員が決めることやから、素人のイエスもノーも、住民投票で聞く必要なんかない」というかのように、あっさり却下されてしまったんです。

住民投票は実施されないということになって、初めて私はそこで怒りというより、素朴に「こんな仕組みなんだ、政治の世界は」と、もの凄い疑問と興味が湧いてきたんです。

それは、元々ビジネス一辺倒できた自分が、初めて思い切り政治のほうに目が向いたきっかけだったんです。

すぐそれで自分が選挙に出るなんていうほど軽はずみじゃなかったんですけど、住民投票をやるべきだという署名活動をしていた人が、また次の半年後の市会議員選挙に出るだろうから、そういうところでホームページを作ったり、チラシを作ったりという広報宣伝のお手伝いをボランティアでしたいなと思って、いろんな陣営に連絡を取っていたんです。

ところが聞いてみると、現職の人以外誰も出ないということがわかってきて、そうすると全員通っても神戸市全体では住民投票やるべきだ派の人が過半数にいかないんですよ。それじゃやる前から負けてるじゃないですか。

せめて全員通れば議会の構成が過半数ひっくり返って、住民投票をやるというふうになるように、候補者の人数揃えましょうよという話をしたら、どうも誰も出ない。

それだったら、自分だって候補者の駒の一つになることだってあり得るという覚悟で言っているんですよ、という話をしていたら、ある時、住民投票の署名集めをしていた市民運動の方が私のところに来られて、「井坂君、そんなことはやめろ」と。

私は出身は関東ですし、よそ者で、まだ社会人になったばかりでお金もない。地元で支援者がたくさんいるわけでもなく、親が政治家というわけでもない。いわゆる「地盤も看板も、鞄…お金の鞄もない」というような状態では勝てない、と。

でも、井坂君みたいなのがポッと出て、仮に1000票でも取ったら、これまで通ってた住民投票やるべきだ派の現職の議員さんがその分票を減らして落ちるかもしれない。だからそんなことはやめてくれという交渉に来られて。

そこで私は頭のネジがピンと外れまして、「別に市民運動の応援が欲しくて言っている話じゃないから、数揃えるのは当たり前だ」と、「応援なんかいらないから、私は勝手に出ますからね」というような形で出てしまったのが25歳の時の市会議員選挙なんです。知らなかったから出来た話だと思います。

■最年少ですよね。

生まれるタイミングがあと2週間遅かったら、選挙の時に25歳に達していなくて、議員になれていないですからね。

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