シーソーの長さを決めるには

トミモとあきな - 藝術家 -
多くの作品を作り多くの作品を没にしてきた。
けれども、その没から学ぶことが多かった。
今、必要としないものを貯めておくこと、待たせる事の重要性に思うところがある。
情報化社会とは「待つ」ことからの離脱なのか。
果たして、「待つ」ことから離脱するべきではないのでは。
暇さえあれば携帯電話をいじくって
暇がなくてもメールはやってくる。
気になる事はすぐに検索できる。
リンクなどはってくださっていると、どんどん知った気になる。
知りたいと願ってもいない情報までもが知った気にさせてくれる。
そんな情報は脳には貯まらない。空間としての脳には置いておけない。
脳の空間は、貯めていた情報を熟成させる。
熟成できる情報は少ないかもしれないし、熟成できることを知ることは必要のないことかもしれない。
けれども、知り得たと思う前に少し考えてみる。そんなことを意識してみるのもシーソーの長さを決めるヒントかもしれない。

未熟性を沢山抱えるには、それ故バランスが必要だ。

哲学書を意味もわからず読みあさったかつての私がいた。けれども、脳の空間には置いておくことは出来た。やがてその知識と情報は年月を経て熟成していった。いま私はその熟成した知識を味わっている。そう、置いておいた知識は熟成した後、脳から私の体にしみわたっていった。

知的欲こそ本当の人の原動力であるのならば、「急いで知ること」「理解した気になること」の浅はかさと、そうならないことの重要性と面白さこそ、思考を止めない旅にヒトは出ることができる。
メディアで知ったこと、書物から知ったこと、人から聞いたことから「知る」機会はあるが、そのインプットの過程を別の角度から見たらどのように映るのだろうか。
多方面から見ることで本質に近づき、多方面に見せることで未来で使えるシーソーは出来上がる。
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