2013年8月9日

毎日の「風知草」に山田孝男氏が「ドイツ史に学ぶこと」を書いている。

「生兵法は大けがのもとという。麻生太郎副総理兼財務相(72)の歴史講釈はお粗末過ぎた。『改憲はナチスに学べ』という放言(7月29日)で深手を負ったのは副総理だけではない。日本の国際的な信用が血まみれになっている。

放言報道についてマスコミの歪曲、誇張を疑う向きがあるが、録音に基づく詳報が併載されており、ねじまげた跡はない。

なるほど、麻生自ら釈明した通り、話の趣旨は『狂騒の中ではなく、静かな環境で改憲を』と聴衆に訴えるところにあった。が、たとえが悪過ぎた。脱線の核心部分はここだ。『ワイマール憲法という当時のヨーロッパで最も進んだ憲法下にヒトラーが出てきた……ある日気づいたらワイマール憲法が、ナチス憲法に変わっていたんですよ。誰も気がつかない間に変わった。あの手口を学んだらどうかね』。

中国メディアが『日本の政権幹部がキツネのしっぽをさらけ出した』と論評したのも無理はないが、この断定は放言の本質を正確にとらえていない。

麻生はヒトラーの信奉者ではない。毒舌で満座を沸かせたいというウケ狙いの欲にとらわれ、一知半解の知識を振り回して墓穴を掘った。事の本質はそれに尽きると私は思う。

麻生の最大の誤解は、ヒトラーによる事実上のワイマール憲法改正が、現代日本と同質の議会手続きで行われたという思い込みにある。史実は違う。

ヒトラーは首相就任直後の1933年3月、立法権を国会から政府に移す全権委任法(授権法)を制定した(ナチス憲法をつくったわけではない)。ワイマール憲法76条は改憲のハードルを『国会議員3分の2以上が出席し、出席議員の3分の2以上が賛成する』ところに置いていた。全権委任法採決もこの規定が適用された。

採決当時は、国会議員647人中81人を占める共産党議員は、全員が、地下に潜るか、強制収容所に送られているかという状況だった。社会民主党議員も120人中26人が逮捕されていた。多くの国民は、反国家的勢力の規制はやむをえないと考えていた。

本会議場の建物はナチスの軍事・警察組織であるSA(突撃隊)、SS(親衛隊)と熱狂的なナチス支持者に包囲された。反対票を投じた社民党議員が『生きて議場を出られないのではないかと危惧した』(「ヒトラー/権力掌握の20カ月」=クノップ著、2010年中央公論新社刊)という状況の中で全権委任法は可決・成立した

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