野田佳彦 インタビュー全文
読書
インタビュアー:
まずご趣味をおうかがいしたいのですけれども。
野田氏:
大してないのですけれども、読書といっては月並みですけれども、時代小説を読むのが好きですね。
インタビュアー:
なるほど。
野田氏:
むしろ政治学とか財政学の本を読んで政策の勉強をするよりも、政治としては時代小説の方がヒントがあったような気がしますし、司馬遼太郎の世界から夢と志を勉強したり、藤沢周平の本から侍の佇まいを勉強したり、山本周五郎から人情の機微とか、池波正太郎の鬼平なんか読んでたらね、男の器量とか、懐の深さとか。時代小説を読んで、リラックスしながらもエッセンスをつかんでいくというのが一番好きですね。
インタビュアー:
おっしゃることがわかります。格好いいですよね。僕も池波正太郎とか山本周五郎の作品を読む度に、明日からまたがんばらなくちゃなあという気持ちになります。野田先生が今若い世代の人たちに、今この本を読むといいよ、というようなおすすめの本はありますか?
野田氏:
そうですね、最近また山本周五郎を読みまして、よかったのは「ながい坂」。下級武士が志を固めて成長していく姿ですけれども、讀賣出身のコラムニスト橋本五郎さんも薦めている本だったので。昔読んだ記憶がありまして。もう一回読みましたが、原点に立ち返るようないい本でしたね。
インタビュアー:
それはどういう部分に共感されていらっしゃるんでしょうか。
野田氏:
やはり、志を若い頃に固めて、それを実現をするためにいっぱい紆余曲折があるのですが、成長しながらそれを実現をしていくプロセスが、非常に、原点を大事にした人生を送っていくということですよね。
政治家人生
インタビュアー:
野田先生ご自身も、若い頃そういう(志を持ちそれを実現するために行動する上で)紆余曲折をされたのでしょうか。
野田氏:
政治の道を選んでからは、割とまっすぐ来ていますね。政治の世界に入ってからは落選など曲折はありますが、道を選ぶ際は、割とすんなりと決めてきていると思います。
インタビュアー:
どういうごきっかけで野田先生ご自身、政治の世界に関心をもたれたのでしょうか。
野田氏:
政治への関心は、多分少年時代からあったと思います。
例えば、千葉県ですから、金権選挙を象徴するような事件は子供の頃いっぱい相次いでいました。おかしいなと思いながら、中央では、田中金脈問題やロッキード事件が起こって。その時に学生になって、政治学を勉強することになったのですが、現実の政治と学んでいる政治との違いというかギャップがありましたからね。
最初の頃は、ジャーナリストになって、政治部の記者になって、政治を正していくことを自分の仕事にしたいと思っていました。立場は高し、問題を追及して、周りからここぞと追い込むというわけですよね。ペンでも政治は変えられると思っていたので、まずは政治部の記者になって、いずれ独立して、それを周到してと思っていたのが、小さな志。寸志ぐらいでしたが(笑)。
たまたま卒業する年次に、いくつかのメディアを受けていましたけれども、新聞広告で、松下政経塾第一期生募集という広告を、親父が「こんなのあるぞ。」と言って見せてくれて。見たら、何となく興味がありましてね、パンフレットを取り寄せたら、一期生募集だから実績がないではないですか。だから全部イラストなのですよね。トラクター乗って作業しているところなど、そういうのを見て心が動いて、応募したのです。
ふとしたことですよね。あの広告というかパンフレットを取り寄せなかったら、多分この政治の世界に入っていないと思いますね。
インタビュアー:
小さい頃から政治への夢、関心があったのですね。
野田氏:
関心はね、これは信じてもらえないのですけど、はじめて政治を意識したポリティカルメモリーというのは、3才半なのです。
浅沼稲次郎という当時の日本社会党の委員長が右翼の少年に刺されて亡くなるという事件がありまして、それが白黒テレビでずっと流れてまして。母は亡くなりましたけれども、その時お袋に、なんであのおじさんは殺されたの、と聞いたときに、なんとなく、政治という仕事は命がけの大変な仕事なんだ、と。
言われた記憶があるというのが原体験。保育園の時に、1963年ジョン・F・ケネディの暗殺があって、内外ともに政治というものは大変なのだと、むしろ怖いな、というのが幼児体験でしたね。けれども、命がけで政治をするはずなのに、身近で金権選挙とか だんだん大きくなると見えてくるではないですか。
このギャップは何なんだろうというのがなんとなく関心をもっていた背景なのだと思います。
インタビュアー:
そういうのが後々の自分の行動に影響してきたというのがあるのでしょうね。
野田氏:
不思議だなあと思いながら、こわごわ見ていたところがなんとも、ですね。
家族
インタビュアー:
話は変わってしまうのですけれども、奥様との馴れ初めについてお伺いしたいなと思うのですが。
野田氏:
いいでしょうそのようなもの(笑)
インタビュアー:
どういったところでお知り合いになったのですか?
野田氏:
政経塾を卒業しても、仕事がないのですよ。弁護士になれるとか公認会計士になれるとかではないし、当時は今ほど会社から会社へ異動するような柔軟性もない頃で、終身雇用の年功序列の頃でして。卒業した時、27ですよね。大きい企業に入ろうと思っても、それだと政治家ができなくなってしまう。フリーターだったのです。アルバイトをいろいろやっている中で、司会の仕事もしていましたね。
インタビュアー:
何の司会?
野田氏:
イベントの司会。そのイベントで、ある病院のオープニングセレモニーがあって、その司会者をやるんです。余興というか、メインのイベントとして、声楽家の方を呼んだコンサートがあったのですが、その声楽家についてきた主役がうちの家内。
インタビュアー:
そこでお知り合いになった。
野田氏:
はい。でもすぐそこで交際がはじまったわけではないですけれども。数年後また別の機会があって。
インタビュアー:
もう一度お会いする機会がたまたまあった。
野田氏:
はい。
インタビュアー:
その時は先生からどんなお声掛けをされたのですか。
野田氏:
声を掛けたというか、巡り合わせであわせるような機会があったと思うのですが。
インタビュアー:
今、お子さんもいらっしゃる?
野田氏:
ええ。
インタビュアー:
休日は、パパとしてのこととかするのですか?
野田氏:
なかなかみんな時間が合わないですからね。家族があまり揃うということはないですけれども、誕生会とか結婚記念日とか。
インタビュアー:
どのようなことをされるのですか?
野田氏:
ケーキを買ったり花束を買ったり、多少のおべんちゃらはやりますよね(笑)
インタビュアー:
(笑)小洒落てますね。花束お買いになったりするのですか。
野田氏:
ええ。
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インタビュアー:
総理在任中は優先順位を付けるわけではありませんが、国家ありきで、どうしても家族が二の次とまではいかなくても頭の中にあってもどうしてもケアできないものになりますが、総理在任中と退任されてからは、家族との関係は密になったり在任中は疎遠になってしまったり。
野田氏:
そうは言っても、公邸に住んでおりましたし、長男は大学で外に出ておりましたけど、次男はまだ高校生だったものですから、公邸で彼も暮らしていたので、おそらく公邸から通学した子どもがいるというのは はじめてだと思います。角栄さんのころは、指定がありましたよね。
子どもがいて、公邸に住んで、学校通ったというのははじめてですけど、公邸にいた頃に原発の再稼働もやりましたから、官邸をデモに囲まれたり、なかなか公邸から出て牛丼を食べに行くことはできないですね(笑)。
そういう中で不自由な生活をしたという、逆に一体感が出てきたといいますか、会話はそんなにたくさんできたというわけではないですが、今は、公邸を出ていますけど、従来よりは日頃からボコボコにされることもありますから(笑)、家族で一緒に耐えるということもありましたから、団結心は出ていた気がしますね。
若者への思い
インタビュアー:
僕は今二十歳ですが、野田先生が今二十歳でしたら、この時代の中でどういう事をされるのでしょう。
野田氏:
そんな格好いいことはやらないとは思いますが、もう一回二十歳に戻ったら、趣味で先程読書と言いましたが、格闘技観戦も好きなんですよ。二十歳だったらまだ体力があるから。当時はなかったですが、総合格闘技のどこかへ入門して、試合に出られたらいいなと。もしやり直せたらやってみたいですね。
インタビュアー:
ご自身、昔柔道習われていて、僕小金高校というところで、船橋高校のすぐそばのところなのですけれども。
野田氏:
小金高校でやったことありますよ。柔道。
インタビュアー:
本当ですか。今はなくなったんですけど、当時はあったのですか。当時はどのような高校生活を送られていたのですか。
野田氏2:高校生活は、柔道部でした。あとは月並みに。特段、特徴がなくて、むしろ無口な方でしたから、今も無口な方ですけれども、特に無口でしたから、シャイに生きていましたよ(笑)。
インタビュアー:
クラスでは
野田氏:
目立たない。全く。目立たない方でしたね。
質問者2:若い頃、海外へ行って印象に残る国はありましたか。
野田氏:
北朝鮮。県会議員だったんです。無所属の。自民党では金丸さんが力があって、社会党では田邊誠さんが力があって。この二人の蜜月関係の中で、日朝国交正常化の機運が高まった頃があるのです。
20年ぐらい前なのですが、その時、全国地方議員の有志が平壌に行く企画ができて、そこに潜り込むことができまして行ったのです(笑)。すごい経験ができたと思うのは、38度線に板門店がありますよね。普通日本人なら、韓国旅行へ行って、韓国側から見る機会があるでしょう。北側を見て、不気味な国だなあと思って帰ってくるのですが、逆から見たのです。38度線を。
板門店に入る前に、朝鮮戦争の悲惨な映像をいっぱい見せられるのです。赤ちゃんが死んでいるところ、それをお母さんやおばあちゃんが泣いているところなど。散々ひどい映像を見た後に北側から38度線に行くと、最初出てくるのは、38度線にいる米軍の兵士。これがみんなマイク・タイソンに見えるのです。怖いですよ。悲惨な映像の後ですから。
その後ろの方で、インスタントカメラを使ってピースサインで写真を撮っている一群の東洋人がいますが、これは大体日本人。マイクタイソンの後ろで、にたにた笑っている東洋人の姿に見える。逆の立場で見ると、そういう見方をするのだなと、アメリカは怖いな、と、日本というのは何だこら、と彼らは見ているのかなと。
いわゆる原体験、非常に興味深い経験でしたね。
インタビュアー:
象徴的な光景ですね。
野田氏:
普通の物見遊山の角度よりもいろんな角度からものを見るという意味での海外での体験だったと、大変おもしろいと思います。
インタビュアー:
その立場に立ったという見方ですね。
松下政経塾
インタビュアー:
自分が若いときに自分を変えるきっかけになったこと、影響を受けた人物はいらっしゃいますか?
野田氏:
先程、松下塾に入ったきっかけを申しましたけど、松下幸之助さんという人出会うことができたことが、人物による影響という意味では一番大きかったと思いますね。当時85才だったのですけど、94才でお亡くなりになるまで約10年間ご指導いただいたということですね。
インタビュアー:
結構若い世代の人も今ニートだ、小振りだとか言われていますけれども、内なるものとして燃えている人もいっぱいいると思うのです。その中で出会いはとても大切だと思うのですが、今、野田先生ご自身の身の回りでこの人はすごいとか、優秀な人だと思われる方はいらっしゃいますか。
野田氏:
いっぱいいますよ(笑)。同僚の議員の中でも、それぞれしっかりしていい考えをもっている人もいっぱいいますし、役所の中でもそれぞれの正位も国のことを考えて一所懸命仕事をしている人たちもいるし、メディアでも民間でもいっぱいいますよ。数え切れない程いっぱいいると思いますね。
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インタビュアー:
松下幸之助さんの影響を多大に受けられたかと思うのですが、一度どこかで拝見したエピソードでおもしろいなあと思ったのが、入塾の時に、君は家がお金持ちなのか…あまりないことですよね(笑) インタビューで、すごいいいなと思いまして、松下幸之助さんへの思い、いろいろなエピソードがある中で、先生の中で一番印象に残っているものはなんでしょうか。
野田氏:
政経塾に入って1年目か2年目位の時、同僚の中からリーダーシップの質問を松下さんにしたのです。信長と秀吉と家康、ホトトギスで例えているものがありますよね。
鳴かぬなら殺してしまえホトトギス、が信長、
鳴かせてみせようか が秀吉、
鳴くまで待とう、が家康。
その3類型の中で、松下さんはどれを選びますかと訊いた塾生がいたのですが、即答で、「どれでもない。」と言うのです。普通、大体三択で選ぶのですが(笑)、答えたのが、「鳴かぬならそれもまたよしホトトギス」と、独自の考えを示されたときは、鳥肌が立つような感動。
鳴かないホトトギスがいてもいいじゃないかと。三択に拘らない発想。普段から考えていないと、こういう答えは出ないでしょう。後から聞いたのですが、昭和40年代に多くの企業の社長さんたちが三択の質問を聞いて、ほとんどみなさんが三択で答えているのです。
傾向として、一番多いのが、家康の、鳴くまで待とう、次が秀吉。三択以外で答えたのが、松下電器の松下幸之助さんと、ホンダの本田宗一郎さん。本田宗一郎さんは、何と答えたかわからない。
インタビュアー:
でも三択ではない。
野田氏:
三択ではない。松下さんが何を考えていたかということはそういうことを知るべし。おもしろかったですね。
総理の一日
インタビュアー:
一般人として興味があるのが、総理大臣の一日ってどういうスケジュールなのでしょうか。
野田氏:
当然、朝は早いですね。スタートは早いのですが、これは外国の首脳と違うところなのですが、首脳は誰もが朝早いはずです。国のトップは。朝から会議などいろいろあります。
海外の首脳というのは、インテリジェンスの各議員など、世界のマーケットの情報などを一応おさえてからいろいろ指示を出してスタートすると思うのですが、我々は国会の答弁から、想定問答から始まっているので、朝早いのはいいのですが、どうしても国会中心に対応が決まっていくことが多いですね。
一日予算委員会に呼ばれると、午前中3時間、午後4時間とかですね。それが終わってから、政府のいろいろな会議、お昼までにセットしたりとか続きますね。同僚の政治家からのいろいろな報告が入ったり、役所からの調整事項の相談があったり。意外と官邸にいると、海外からのお客様が多いです。出張も月に1回位ありましたが、480日間総理大臣をやっているときに、161回、官邸で海外の要人と会っているんです。
ということは、3日に1回は会うのですね。夕食会なども含めて。そういうスケジュールが夜まで続く、ということですね。
インタビュアー:
睡眠時間はどれぐらいですか。
野田氏:
睡眠時間は取らないと判断力が鈍りますから、5時間~6時間はきちんと取るようにしますけど、寝ていても一番苦労するのは危機管理の仕事です。これは、いつ入ってくるか分からないです。境界侵犯があったり、異常気象で大雨の被害がひどいなど、随時入ってきますので。
インタビュアー:
分刻み・秒刻みのスケジュールレベルで。
野田氏:
分刻みでしたね。
インタビュアー:
政治家さんは本当に大変だなあと思っていて、仕事が尋常ではないぐらいあって、毎日どういうことを考えて生きておられるのでしょうかというのが素朴な疑問としてあるのですが、毎日すごい勢いで過ぎていくと思いますが、480日間はどのようなものでしたか。
野田氏:
一日一日分刻みのスケジュールでしたし、激動でしたよね(笑)。海外へ行っても、国会が大事ではないですか。説明責任がありますから。海外へ出たとしても、例えば、メキシコのロスカボスでG20があった時も、1泊4日とかね。行って帰ってくるだけなのですけど、高速移動だけでも大変ですね。そういうことの繰り返しですね。
インタビュアー:
海外でのんびりしたいとかいうのも
野田氏:
ないですね。