2015年9月16日 日経「真相深層」「中国抗日式典、厚遇の舞台裏」「『習・朴』10年の蜜月」「日本外交の変数に」

日経の「真相深層」に「中国抗日式典、厚遇の舞台裏」「『習・朴』10年の蜜月」「日本外交の変数に」が書かれている。

「3日、北京での『抗日戦争・反ファシズム戦争勝利70年』の記念式典。天安門楼上の観覧席まで韓国の朴槿恵(パク・クネ)大統領は習近平国家主席、ロシアのプーチン大統領と並んで海外要人の先頭を歩いた。赤じゅうたんに明るい黄色のジャケット姿が映える。その色づかいに中国国旗・五星紅旗を想起した人も少なくないだろう。日米の懸念を振り切って中国に向かった朴氏を、習氏は特別待遇で迎えた。

朝鮮戦争休戦の翌1954年、中国建国5年を祝う軍事パレードで、毛沢東氏の横にいたのは金日成(キム・イルソン)首相(当時)だった。今回、同じ場所で習氏の2つ右隣に、朝鮮戦争で中朝と戦火を交えた韓国の朴氏が立った。金日成氏の孫、金正恩(キム・ジョンウン)第1書記の姿はない。父が抗日パルチザンの崔竜海(チェ・リョンヘ)朝鮮労働党書記は元首級でないとはいえ、習氏から遠く離れた席が与えられた。

<朴氏の父が縁>
2日の中韓首脳会談は同時通訳でなされ、会談後に習氏が朴氏のための昼食会を開いた。李克強首相も朴氏と向き合った。3日の式典後の各国代表団を招いた昼食レセプションでは、朴氏専用の待機室が用意された。

中韓蜜月を内外に印象づけた2人の出会いは10年前にさかのぼる。2005年7月、浙江省党委員会書記だった習氏は訪韓時に朴氏との面会を申し入れた。朴氏の父、朴正熙(パク・チョンヒ)元大統領が70年に始め、経済成長を支えたとされる農村近代化運動『セマウル運動』を学びたいと考えていた。

朴氏が代表を務めていたハンナラ党側は「会えません」と断りを入れた。地方訪問の予定が入っているのに加え、最大野党の党首と地方自治体のトップでは格が合わないと判断していた。その経緯を習氏周辺から聞いた中国通の同党関係者は朴氏に『胡錦濤氏の次の国家主席に最も有力な人です。日程を変えてでも会わないといけません』と進言。朴氏は受け入れ、昼食会まで用意し習氏をもてなした。

中国の書籍や歌謡曲を好み、中国語も独学で身に付けた朴氏。ソウル市内の中華料理店で、習氏とセマウル運動や北朝鮮情勢などを2時間近く話しこんだ。習氏が中国に戻った後に、朴氏は段ボール2箱分のセマウル運動の資料を送った。

『韓中の戦略的パートナーシップ関係を発展させるよう一緒に努力していきましょう』。1月末、朴氏の誕生日(2月2日)を祝う習氏の手紙が届いた。13年に習氏の還暦を朴氏が祝って以来、2人は毎年便りを交わす。朴氏は13年に歴代大統領で初めて日本より先に中国を訪問。翌年に習氏が韓国を訪れた。『血盟』関係といわれた北朝鮮には足を運んでいない。

『2人は境遇が似ており、共感しているようだ』と韓国政府関係者は話す。父親が大統領、副首相というともに政治エリート一家に生まれ育ちながら、順風満帆ではなかった。朴氏は父が暗殺されると、父の側近たちに次々と背を向けられた。習氏は文化大革命(1966~76年)時代に父が批判され、中学生だった自身も、都市の知識青年を農村に送って肉体労働などに就かせる『下放』政策のもとで、厳しい生活を強いられた。

<対日でけん制>
北京での式典後、朴氏は上海に移り『大韓民国臨時政府庁舎』の再開館式に出席した。日本の植民地時代に独立運動の拠点となった場所だ。昨年はハルビン駅に伊藤博文を暗殺した安重根の記念館が建てられた。ともに協力的でなかった中国が朴氏の要請を受けた習氏の号令で動きだした。韓国を取り込み、安全保障面の『日米韓連携』の分断や歴史問題での対日けん制の思惑が透ける。

朴氏は一方で、習氏と北朝鮮のいかなる挑発にも反対すると確認し、中国が慎重だった日中韓首脳会談を10月末にも開催する約束を引きだした。同会談時には安倍晋三首相との日韓首脳会談が開かれる見通し。訪中を通じて安倍政権への直接批判を避け『抗日』の言葉を使わなかったという。

『中国に取り込まれないように』。米国は韓国にクギを刺してきた。結びつきを強める『習・朴』関係が日本外交の変数になっている」。

朴槿恵大統領の父である朴正煕元大統領との縁での「習・朴」10年の蜜月というが、安倍首相の祖父である岸元首相と朴正煕元大統領との縁がもっと強い。「朴・安倍」蜜月があって然るべきである。10月末の日韓首脳会談がその始まりと

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